2018.7.20 第145話
個別分散型の災害復興が“地域のしなやかさ”を取り戻す。
4年前に発生した広島土砂災害の傷が癒えぬ中、平成最後の夏、また西日本の広域で豪雨災害に見舞われた。やはり4年前と同様各地に「線状降水帯」が現れ、同じ場所に集中して雨雲が発生する『バックビルディング現象』というゲリラ豪雨により、大規模な土砂災害や河川・堤防の決壊による家屋浸水が同時多発的に発生した。なかでも広島市安芸区の梅河団地では、今年2月に完成したばかりの砂防ダムで安心だと避難しなかった人たちを土石流が襲い、下流の60棟の団地の約20棟が土砂にのまれ、4人が亡くなった。団地内には半年前に新築を建てた人もいたという。
今回の豪雨では、4年前の広島土砂災害だけでなく、毎年のように続く大水害を教訓に、報道各社は早くから「数十年に一度の豪雨が迫っています」と、各地域に大雨警報を流すだけでなく「命を守る行動をして下さい」と、これまでにない強い表現で気象庁の発表を放送していた。スーパーコンピューターの解析で、雨雲発生の予知精度も高まり、雨量などもほぼ予測通り各地に記録的な大雨が降ることを当てていた。そして適宜「避難警報」や「避難指示」等もテロップで流れ、携帯でもアラートが鳴っていた。だから多くの人がここ数年と同様、大規模水害が発生することは予想がついただろう。ただ自分が被災するという発想には至らず「自分が住んでいるところは大丈夫だろう」と甘く考え行動に移さなかった人たちが多かった。結果、避難の準備をしても逃げ道を失った人たちが犠牲になった。
過疎地復興の鍵は「レジリエンス」
このように台風や豪雨、大地震の発生確率など、いかに災害予知の精度が高まっても「まさか自分は大丈夫」だと思い込む『正常性バイアス』という、本人にとっては“想定外”の状況で逃げ遅れるといったことが繰り返されている。また地元自治体による適切な避難指示があったとしても、どこに逃げれば安全なのか分からない人が少なくない。特に高齢者や乳幼児を抱えた母親など、豪雨の中、指定避難場所まで向かうのが困難な社会的弱者も地域で生活している。避難所に逃れたとしても、その後の関連死やエコノミー症候群など、被災者には厳しい現状が続いていく。自助・共助・公助といった美しい言葉を並べても、現実的には自衛隊やボランティアによる災害関連のゴミの撤去、インフラの復旧までは出来ても、その後の自立は容易ではないだろう。
特に土砂災害が発生するようなエリアは、急傾斜地で高齢化や過疎化が進みつつある集落がほとんど。人道的・感情的には「これまでの予算を倍増し、砂防ダムなどのハードの整備や避難計画・土砂災害危険地域の指定など、ソフトの充実を図る」と地元の首長や政治家は地元愛をPRするだろう。しかしどれほどの人とお金を投じて防災体制を高めても、時間が経ち、世代が変わって場所が変われば、正常性バイアスの影響も含め、今のままでは被害が減りそうにない。しかもこれまでの復旧・復興を見ていると、巨大な砂防ダムや堤防という巨額費用は、公共工事の入札のランク付けで経営の安定性や資金調達力のある大都市圏の大手ゼネコンが落札し、その地域にはほとんど新たな雇用も技術・技能の継承も、施設管理の人材・ノウハウも残ることがないのが現実だ。一時的に作業員の宿泊や飲食に伴う支出が近くのコンビニや飲食店に落ちるくらいではないだろうか?
私はむしろその復興予算で、危険性の高い場所からは住居を立ち退きしてもらい、災害を緩和させるバッファゾーン整備に知恵とお金を使ったほうがいいと考えている。市民農園や災害記念公園、スポーツ公園や自然保護区など、日常的に人が住んでいなければ、犠牲者は発生しないし特徴ある景観をつくることも可能だ。その上で、どの家からも徒歩で5分以内(概ね400m程度)に避難が完了する「災害シェルター」を配置し、町内会単位、班長が避難を確認出来るくらいの、小集団での避難誘導計画が出来れば、本来の自助・共助・公助が機能するだろう。90歳を超えた高齢者や、車いすでも助け合って10分以内に避難できることが理想だ。
具体的なイメージは、近隣公園や交番、郵便局、公民館など地元の公的な場所に、50名程度は収容できる“地下シェルター”を分散配置していく。アメリカの映画で見る大型のハリケーンや竜巻などもやり過ごす、地下の居住空間だ。所有者に了解が得られれば、空き家の再利用でもいいだろう。災害備蓄や緊急通信装置なども揃え、水密性や換気を十分確保すれば、タイで洞窟に閉じ込められたサッカー少年たちよりも安全に、災害をやり過ごすことが出来るだろう。かの国のミサイル発射にも対応できればさらに住民の安心感は高まる。そのような災害シェルターであれば、地元の中小企業でも受注でき、メンテナンスや備蓄品の管理も地元で可能となって、日常的に災害に関しての意識も高まるだろう。このように“個別分散型”の災害復興をきめ細かく、知恵を絞ることで、過疎化が進む小さな町村でも、復元力が働く「レジリエンス」が強化され、持続可能性が高まるのではないだろうか?
そうでなければ昭和38年に中国山地を襲った三八豪雪のように、交通インフラが整っても離村した人々が帰郷しないという状態が加速化するだろう。人口増加や経済発展があった当時とは比べ物にならないくらい、今の日本の地方は環境が厳しさを迎えている。今は、”経営審査”という公共事業のランク付けと、災害の補助金の使い道が決められ、自治体の国や大手への依存体質、スーパーゼネコンの営業力などで、大型公共工事が『国土強靭化』の名のもとに垂れ流されている。結果として地方の疲弊と東京一極集中がさらに加速化されるということに地元議員も含めて誰も気づいていない。
国や自治体が用意した巨大な施設ほど、”住民にとっては他人事”で、事故や災害の責任は行政に向かう。逆に、自分たちや地元の企業が整備すれば、自立の意識が高まるだろう。