2024.1.15 第188話
能登半島地震で感じた二次避難先と災害復興への道筋(若本私案)
2024年の年明けは、元日の夕方、お正月番組を放送していたテレビ画面に突如「大津波警報」のアラートが表示され、最大震度7の巨大地震が能登半島を襲ったことが報じられた。すでに何度か経験した“震度7”の地震が、高齢化が進み老朽化した木造家屋の密集している地方を襲うとどのような事態に見舞われるのか、ある程度想像はついた。しかし被害の全容はなかなか伝わらず、翌2日も被災地の様子を伝える報道で各局の正月特番は消え、祝賀気分は吹っ飛んだ。同日、被災地支援のために緊急支援物資を載せた海上保安庁の貨物機が、羽田空港の滑走路上で、着陸を許可された民間機と衝突炎上した事故が、さらに世間に衝撃を与え、重苦しい雰囲気が日本中に広がってしまった。
このコラムは地震発生から二週間後、ようやく被害の全容が見え始め、避難所の劣悪な環境や、まだ寸断された道路によって孤立した集落があることが明らかになった状況で書いている。1月13日時点での死者は200人を超え、そのうち十数人の「災害関連死」が疑われている。被災地から救出され、その後の数日から数ヶ月の避難所生活などで亡くなった方が、熊本地震では震災で命を落とした人の4倍を超えていて、今回の能登半島地震でも、今後さらにこの“災害関連死”が増えていくだろう。孤立状態にある人々も15地区793人というのが震災後2週間経っての実態で、さらに2万人を超える人たちが避難所生活を送っているという。このような状況に陥ることは、21世紀がスタートして以降日本全国で発生した激甚災害で何度も目にし、災害の教訓から学んだはずだが、今回もまた「想定外」の事態に対処できないまま被災地の苦境が伝えられ続けている。政治や行政だけでなく、マスコミも無策の様相だ。
■従来の発想を大転換する二次避難と災害復興
時代遅れとなった古い慣習から脱皮し、新しい社会構造、経済の活力を取り戻そうとする時、キーワードとして使われる『パラダイム・シフト』や『イノベーション』という言葉。災害においても、過去の成功体験が通じることは少なく、人々の要望や社会環境も大きく変化していることから、従来の避難所の考え方や災害復旧・復興への道筋も、過去に囚われず、新しい発想と新たな技術をもっと大胆に構想した方がいい。この間、私たちは新型コロナのパンデミックに遭遇し、局地的に発生する自然災害とは全く異なる危機に直面、長期に亘る苦難を経験した。この教訓は、広域に発生した今回の激甚災害においても活かさない手はないだろう。建物もインフラも物理的に壊れていなくても、移動が制限され、精神的・経済的苦痛を味わわされたあの忌まわしい感染症による世界的なパニックでは、実行できなかったことを含め多くのことを学んだ。
今の被災地の状況を確認すると、震災の影響で道路が寸断され、生存に必要な水さえも調達に苦労する状況。孤立した集落も数多く、救援物資や医療・介護など生命の危険を回避する支援体制が優先され、地元自治体職員も含めて『エッセンシャルワーカー』と呼ばれる人たちが懸命に被災者の支援を行っているが、本人たちの多くも地元被災者であり、正月休みも返上して不眠不休の支援を行っている。救援物資や機材も不足し、寒波も襲って健康な人でさえ参ってしまうような環境で精神的には限界だろう。従来発想のまま、救援物資も支援者も逼迫、電気や水道、道路などのインフラが破壊され、建物も安全性や快適性が担保できない被災地に集中投下されて、極限状態の環境下で被災者支援をする構図は、例えDMATや自衛隊、レスキュー部隊などの訓練を受けた人たちが現地入りしても、交代要員のいない状態ではどう考えても合理的な活動とはいえない。今回の災害を機に、新しい災害支援や復興の救済スキームを議論したほうがいいだろう。そこで私は新型コロナ禍でヒントを得た「大型クルーズ船を二次避難先として使う」というのも、日本の現状にあった今回すぐにでも検討できる解決策だと考えた。
これまでの激甚災害では、体育館や公会堂等のダンボール程度しか仕切りのない一次避難所がしばらく続き、その後馴染みのない場所への集団移転やお隣の声が聞こえるような仮設住宅への移住、数年後の災害復興住宅や自宅再建など、時間の経過と共に被災者は精神的にも経済的にも追い詰められる。特に高齢化が進む過疎地域では避難者の負担は大きかった。今回の能登地方では、ビニールハウスで避難する家族も多く、車中泊の人達も含め極限の避難状況を強いられている。その解決策は今回も何も提示されておらず、マスコミも取材を続けるだけだ。
さらに、激甚災害はそれまであった地域のコミュニティを崩壊させ、復興までの間に高齢世帯の孤独死や孤立を増やしてしまった。元気な若い人たちでさえ移転先の地域に馴染めなかったり、新しい生活基盤や新たな人間関係から、住み慣れた故郷に戻ることを断念するなど、激甚災害からの復興は自治体の存続まで脅かし、地元を離れてしまうことへの精神的ハードルも高める結果になっている。震災に限らず、土石流や豪雨災害、台風による風水害に至るまで、過疎地が疲弊する姿を見せられてきたから、それらとは全く別の姿を描くことが肝要だ。
例えば今回、能登半島の避難所から、二次避難先として同じ石川県内の金沢市や白山市の宿泊施設や賃貸住宅に一時的に避難してもらうというアイディアが出ている。福島原発の事故のように東北や関東地方でも放射能の影響を恐れ、西日本でも受け入れ先を用意するようなケースもあったが、やはり高齢者だけでなく地元の学校に通う子供がいたり、仕事の関係から地域を離れられないという人たちは少なくない。過疎地ほど、一度地域の人達がバラバラになりコミュニティが崩壊したら、元通りにはならないことを知っているから一時的な移転だとしても抵抗を感じるのだ。そして避難先で周りの人たちが送る普通の生活と被災地の状況のギャップは、安心して暮らすどころか、将来への不安や田舎を捨ててしまったような”罪悪感”で、平常心でいられなくなるという負の感情も考慮しなければならない。故郷からの距離や元の生活に戻るまでの復興のタイムテーブルが見えないことも不安を増幅させる。
一方で、現状特に生活弱者が被災地に残り続けることは、救護や救援に入っている専門家・支援者の負荷は大きく、復興への足かせも多いことを考えれば、政府が2~3ヶ月程度の期間、複数の大型客船を借り上げて、被災地の基礎自治体の洋上にそれぞれ停泊して、二次避難先を用意することで、状況は一変するだろう。余震に怯えることもなく、電気や水に困ることも無くなって、客室で寝泊まりすれば寒さやプライバシーの問題も解消する。何ヶ月もの船旅を前提とする大型客船では、様々なアトラクションや娯楽も用意され、孤独や運動不足などの懸念も顔見知りの人たちで解消することが可能だろう。海を隔てて目の前に朝・昼・晩、故郷の様子が見えて連絡も取れ、タグボートで送迎も容易な環境を整えれば、精神的な苦痛や被災した疲労感も緩和され、復興への勇気も湧いてくるように感じる。少なくとも、余震が続き、周辺は見る影もなくなった破壊された被災地で、乏しい物資の中、劣悪な環境で暮らすよりも、被災者のみならず全国の被災地を見守る私たちも「ようやく日本国政府も国民のことを考え、被災者の人権や生活を守るスキームを考えてくれた」と歓迎されるのではないだろうか?
日本は海洋国家であり、全国に能登半島のような高齢化が進み道路が寸断されると孤立するような基礎自治体、集落は数多く存在するからこそ、平時の時にこのような複数の救済スキームを考えておきたい。地元に平地を探し、仮設住宅を建てて一時的に体育館などの避難場所から移ってもらい、仮設住宅から出られない高齢者が続出した過去の教訓から脱却することなく、今後想定される南海トラフ地震などの巨大災害を乗り切ることは出来ないだろう。
最後に復興計画について触れておきたい。地震だけでなく火災にも弱い木造密集地の多い地方の過疎地域は、激甚災害で住民が二次避難している間に、道路で囲まれた街区ごとに土地の権利等をまとめ、共同事業として災害に強い住宅の再生構想を立案する。等価交換なり地元自治体が一部土地を借り上げてサブリースするといった形の復興も可能だろう。現金を持たない高齢者ばかりの地域でも、土地という資産があればコミュニティごとの再生・復興スキームはつくれる。多くの住宅やインフラを壊してしまう巨大な自然災害を、衰退する地域再生のキッカケにするしか、今の日本の地方都市を持続可能な地域に再生することは出来そうもない。「災い転じて福となす」というポジティブな発想で、令和の新しい日本の風景を創造するくらいの気概や覚悟が地方選出の国会議員や首長には必要で、それをサポートする住宅や不動産のプロの育成が業界内で求められるのではないだろうか。
●関連情報:コラム59話『東日本大震災復興私案』
ダブルスネットワーク株式会社 代表取締役 若本 修治(中小企業診断士)