2024.9.11 第189話
広島土砂災害の教訓と土木デザイン
今日、9月11日は米国で衝撃的なテロ事件「9・11」が起こった日。私たち広島市民にとって忘れられないのは、10年前の2014年8月20日に発生した土石流による豪雨災害だ。前日の夜半から、広島市安佐南区や安佐北区に雷鳴を伴う未曾有のゲリラ豪雨が襲い、多くの住宅が流され人命も失われた。『線状降水帯』という気象用語も一般的になり、その後毎年のように線状降水帯が発生して、多くの犠牲者が伴う土砂災害や水害が全国各地で見られるようになった。広島では災害を教訓に「正常化バイアス」という言葉とともに“早めの避難で犠牲者を最小化する”と制度やシステムを整えたものの、4年後の2018年7月に発生した『西日本豪雨』は、更に広域で災害が発生し、広島県内でも坂町や呉市、熊野町などで多くの犠牲者を出す災害になってしまった。
あの災害を風化させないため、災害から9年後、まだ土石流の傷跡が残る安佐南区八木八丁目に『広島市豪雨災害伝承館』がオープンし、災害から10年目を迎えた先頃、周辺の復興状況の確認も兼ねて伝承館に行ってきた。災害後に整備がスタートした都市計画道路「長束八木線」沿いに鉄筋コンクリート3階建ての建物を広島市が整備し、地元住民が設立した一般社団法人が管理・運営をしている。
都市計画道路を有効なバッファゾーンに!
10年前の豪雨災害の翌月、私は『バッファゾーンで災害を緩和する都市づくり』というコラムを配信した。広島市にはすでに大きな災害を教訓に、戦前から立ち退きを伴う大きなバッファゾーンが2つ、都市の骨格や景観を形作っており、八木・緑井地区でもこの土砂災害を機にバッファゾーンをつくったらという提案だった。すでにある2つのバッファゾーンは、太田川の水害から住宅密集地を守るため出来た「太田川放水路」であり、火災の延焼や戦災被害を抑制するために整備した「平和大通り」だ。
豪雨災害から10年経ち、現地に行ってみると高台から広島市内を見下ろせるような直線道路「長束八木線」が一部開通していた。“復興の骨格”として避難路と雨水路を兼備する道路という位置づけで、近い将来、この道路の北端は可部方面から八木八丁目に繋がっている国道54号線に接続し、南端は大町方面から緑井2丁目まで四車線(中央分離帯のある片側二車線)に接続する予定だ。
実はこの都市計画道路は長束と大町間は昭和三十年代に計画され、その後昭和四十年代に八木6丁目までの延長8・5キロに変更された経緯がある。広島大学の名誉教授で、昭和四十年代に広島県の都市計画作成に携わったという大先輩に直接話を伺ったので調べてみると、やはり当時「財政難で用地買収が進んでいなかった」という言い訳で、半世紀も渋滞や土砂災害の危険性を放置していたことが分かった。オイルショック前の経済成長のピーク時、まだ今のような宅地化が進んでいなかったあの地域に、土地買収や道路整備の予算が確保できなかったとは考えられず、当時高規格道路を整備しておけば、10年前の災害は被害を半減できていたかも知れない。ただし現在整備されているのはそれほど幅員のない二車線道路だ。
10年前の災害直後のコラムでは、土石流が流れたエリアを太田川放水路や平和大通りのように立ち退き移転してもらい、そこに公園や市民農園、自然エネルギーなどを山裾に沿って帯状にバッファゾーンを整備すれば、日常的にそこで暮らす人はほぼ存在せず、人命を失うような災害は防げると考えた。しかしその4年後に発生した西日本豪雨で山陽自動車道に土石流が流れ込み、道路が寸断された様子を後日航空写真等で確認してみると、高速道路やバイパスのような中央分離帯のある四車線道路(幅員30m程度以上)あれば、土石流は道路を超えて下の人家を襲うことはなく、道路に沿って横に広がっていることが分かった。
よほど山頂から大きな岩石が回転しながら転げ落ちるのでなければ、泥水状になった土砂や岩石は道路内に留められ、災害復興も容易だ。ブルドーザーやダンプカーもすぐに駆けつけ、土砂の搬出効率も高まる。また、土石流は沢(谷筋)に沿って襲ってくるから、該当する箇所のみ道路と砂防ダムを合体したような防御構造物を整備するだけで、この10年間で整備した砂防ダムや治山ダムは最小限で済んだ可能性がある。道路工事に付随しての建設であれば、作業の難易度も含めて工事費用も圧縮でき、道路の防護壁として多少のデザイン性も加味できたかも知れないだろう。橋梁のデザインなど、土木構造物でも景観を重視した美しい構造物がバッファゾーンにあれば、もっと豊かさと安全を感じられる災害都市の復興のシンボルになったのではないだろうか?
●関連情報:コラム100話『バッファゾーンで災害を緩和する都市づくり』
ダブルスネットワーク株式会社 代表取締役 若本 修治(中小企業診断士)