2018.11.20 第149話
日本の「ベッドタウン」と英国の「ニュータウン」
先頃、昭和63年に書かれた『土地の神話』という分厚いハードカバーの本を読んだ。筆者は、その後東京都知事になった作家の猪瀬直樹氏。時代が平成に変わる直前の、バブル絶頂期に書かれた本が出版から30年経て、まるで新刊本のような真新しい帯付きで入手できた。アマゾン・ドット・コムでたったの28円、恐らく書店か出版社の在庫として流通しないままアマゾンに出品されたのだろう。
この本には、大正の初めから昭和にかけて、東京の南西部、現在の目黒区・大田区・世田谷区あたりの住宅地の開発と私鉄路線が開発されていく様子が、企業サイド側から詳しく書かれている。今の東急東横線や目蒲線、大井町線沿線の街の成り立ちから、鉄道会社同士の経営の攻防戦などを、当時の文献や新聞記事などから丁寧に描かれていた。そこには大正12年9月に発生した関東大震災で、それまで東京の中心部だった浅草や上野、日本橋や新橋といった皇居よりも東側の旧都心エリアが地震や火災で壊滅状態になり、固い地盤と広大な農地だった山手線の南西側(城南)のエリアが、鉄道路線の開発許可と併せて脚光を浴びて、山の手外縁エリアの人口が急増していった様子が描かれていた。
発電事業と鉄道・住宅地開発の緊密な関係
鉄道事業自体は、土地の買収から線路の敷設、車両の購入や社員の雇用など巨額な投資が必要だ。その上すでに浅草~上野間は地下鉄も出来ていたことから、列車を動かす動力は「電気」に変わっていた。発電所から送電までの整備が必要なものの、当時はまだ民間や個人の電力需要は大きくない。各家庭に家電製品が入っている訳でもなく、明るい昼間は電灯をつけることもないから、電気の需給バランスを取るのが大変な時代だったことが本から読み取れた。
そこで、東京や大阪などの大都市圏の「鉄道敷設」と「住宅地開発」は“車の両輪”となって、都心の仕事場に「通勤客」が鉄道を利用するという前提で、郊外の住宅地がつくられたことが分かった。つまり日中の鉄道の利用客数をいかに増やすか、そして夜間しか利用しない電気の需要を日中にもつくらなければ、発電(電力)事業を採算に乗せることが出来ないため、鉄道と宅地開発のセットが事業の拡大に必須だったのだ。そのため都心のターミナル(始発)駅にはデパートをつくって買い物客を集め、郊外の終着駅には宝塚劇場や多摩遊園地など、アミューズメントやエンターテイメント施設をつくって、鉄道で出かけるニーズを増やすことが必要不可欠だった。中間駅周辺で、仕事も買い物も完結するような「職住近接の街」にしなかった理由がここにあり、その後第二次世界大戦を経て、戦後開発された全国各地のニュータウンも、ほぼすべてが“通勤を前提としたベッドタウン”としてつくられていった。
この本の中で、田園調布の開発のために海外事例を視察したロンドン郊外の住宅地『レッチワース』や『ウェルイン・ガーデンシティ』も詳しく紹介されていた。明治期の著名な事業家、渋沢栄一氏の子息で、田園都市株式会社の取締役に就任した渋沢秀雄氏による視察団が世界中の住宅地を視察し、日本の宅地開発の参考にしたという。レッチワースは産業革命による工場の増加と人口の密集で、空気も水も汚染されて環境が悪化したロンドンから、もっと人間らしい暮らしが出来る街としてつくられたニュータウンだ。数年前の北京を思い起こすとイメージも湧くだろう。英国のニュータウンは鉄道駅を中心に、住宅地だけでなく公害を出さない工場や事務所などと、住民が地元で買物出来る商店街なども整備し、街の外周には楕円状に分厚い農地をグリーンベルトとして配置した。それ以上街がスプロール化しないように物理的制限を設けていたのだ。街の外延部に農民が住み、作物の収穫がその地域の“自給自立”を手助けしていた。
世界中で評判になっていたレッチワースなど当時最新の住宅地は、100年を経た今も資産価値が上がり続け、当時の景観を守りながら、活発な不動産売買も行われている。一方、放射状の道路パターンと見た目の景観だけ真似た田園調布は、周辺を別の住宅地に浸食され、第二の田園調布はその後つくられることなく、戦後開発されたニュータウンは、建物の老朽化と住人の高齢化が進み住環境は破壊されつつある。