2020.6.10 Vol.15_No.20
広島の団地シリーズ-Vol.01_西区己斐の団地群
前回の投稿では、戦後広島市近郊で開発された団地の全体像をご紹介しました。今回の号から、具体的な個別の団地についてシリーズでご紹介していきます。
シリーズ第1弾は、「広島の西の玄関」とも言われてきた己斐駅(JR西広島駅)の後背地に位置する己斐(こい)地区の山を造成した団地です。高度成長期による人口増加により、広島市内では中心街からそう遠くない場所に住宅団地の開発が始まり、中心地から西側に位置する己斐の山々に団地群ができました。
1945年にアメリカ軍が作成した広島市の地図では、己斐町は己斐駅(現JR西広島駅)の裏側に一部あるだけでした。
(赤印が己斐駅/ウィキペディアよりトリミング加工して転載)
■団地開発の歴史と現状
己斐は広島の中心地(紙屋町)から電車、バスで約15分ほどに位置しており、JR広島駅から3駅目(新白島駅が出来て以降)になります。
団地群はJR西広島駅から山の間に拡がります。
1970年代から1980年代初めまでの間に段階的に造成され、己斐上(緑ヶ丘団地、明山台団地、日生団地、己斐団地、もみじケ丘団地等)、己斐大迫(国迫団地、大迫団地、日生東団地等)、己斐中(ふじハイツ)、己斐東(己斐イトーピア、広島ハイツ)と出来ていきました。
団地造成により、1972年に己斐中学校、1975年に己斐東小学校、1982年に己斐上小学校、1987年に己斐上中学校が開校されました。
団地群への往来には主に車移動となります。道路は坂道が多く、片側歩道か歩道無しの道路になります。
交通機関では、ボンバスが便利です。通常のバスの大きさよりも少し小さく道幅が狭く坂道の多い団地に適しています。
街中でも緑の小さめのバスを目にすることがあるのではないでしょうか。
主に西広島駅発着が多く、八丁堀発着もあります。
太田川にかかる己斐橋を渡り、県道265号線を上っていくと左右に団地が拡がります。
己斐峠を抜けると、佐伯区の五月が丘団地やジ・アウトレット広島がある団地グリーンフォートそらのに出ます。
団地群の人口・世帯数(広島市HPによるデータ参照)を見てみますと、1981年から己斐大迫町が反映されるようになり、人口・世帯数共上昇しておりましたが、1991年(人口23,501人、8,463世帯)を最後に人口は減少しておりますが、世帯数は増加しております。
2020年3月時点で人口19,338人、世帯数9,312世帯になります。(下記の表参照)
人口総数は減少傾向になりますが、高齢者人口(65歳以上)の割合は3人に1人と増加傾向にあります。また、一人暮らし世帯も増加しています。
また、若年人口(0~14歳)の割合も増加傾向にあります。子育て世帯も増えてきています。
世帯数が増えている要因の一つは、団地ができた当時の1区画の面積が広く、現在販売する時に若い世代が購入しやすいように2~3区画に分割して販売しているためだと推測します。
高齢者人口のみ増加傾向では団地の存続に危機感がありますが、子育て世代が徐々に増えているのは住みやすい団地だからといえるでしょう。
■団地造成の特徴と災害へのリスク
上の図は開発時の切土、盛土の部分を表示した地図になります。
黄色部分が盛土の部分になりますので、多くの谷間が埋められたことが分かります。
そういう部分は、年月が経つにつれて地盤は固くなりますが、基本的に地盤が弱いとされます。
2014年の豪雨災害から警戒区域を見直し、山と団地の境目部分の急傾斜地が特別警戒区域になっていることが多く、擁壁や急傾斜の多い団地は警戒区域部分がとても多く存在します。当時の災害時も己斐の団地群は各所で多少なりとも被害にあっています。
1945年に米軍で作成された当時の広島市の地図をみると、今は度重なる水害で「放水路」となった川は、もっと狭く曲がりくねっている「山手川」や「福島川」の記述が見えるなど、今とは地形が違っていたことが伺えます。
戦後に整備された太田川放水路は、水害から人々を守るために、大規模な区画整理や移転を伴い昭和につくられた『バッファゾーン(緩衝地帯)』です。平成に発生した土砂災害などでも、このようなバッファゾーンをつくり住民が事前に移転していれば、大きな被害が免れていたかも知れません。
土地を選ぶポイントは人それぞれ違いますが、住みやすい環境はもちろんのこと、切土盛土、警戒区域であるかどうかなども選択肢に入れてみてはいかがでしょうか。